軌跡 - 山中勝巳から安芸乃島、高田川へ。
昭和42年(1967年)3月16日、広島県で山中勝巳は生まれた。父の仕事は漁師。勝巳は休みなく朝から晩まで手伝いに明けくれた。昔気質の父親ならでの、男の在り方と厳しさを伝える術であった。
「どこの家でもそういうものだと子供の頃は思っていた」と勝巳は当時を述懐している。
そんな父親の勧めで、小学校三年生のときに柔道を始めた。師となったのは叔父である。父同様に厳しい指導を行なった叔父は、中学生になった勝巳を広島県でも屈指の強豪に育て上げた。事実、成人の国体選抜選手に勝る能力を身に付けており、柔道関係者のあいだでは有名な存在となっていた。
そんなある日、相撲の巡業が広島で行なわれた。そこに大関・貴ノ花利彰がいた。その場に訪れていた勝巳は「身体が大きいな。相撲をやらないか」と声をかけられ、「はい」と即答した。柔道を続けると信じていた母は泣き、父は「死んでこい」と言った。勝巳は父の言葉を受け「死んできます」と答えた。
そして14歳で入門。毎日百番以上、多い日には二百番以上に及ぶ猛稽古をこなした。父と叔父の厳しさを乗り越えてきた勝巳であったが、角界一とまで言われた稽古の厳しさは「本当に死ぬかも知れない」と勝巳を追い込んだ。
山中として初土俵を踏んだのは15歳のときである。以降、勝巳は番付を上げ、20歳のときに十両で優勝。幕内に上がることが決まり親方とともに郷里に帰った。迎えた父は「もっと鍛えてください」と言い、親方の前で勝巳を殴った。父親としてできる唯一の歓迎であった。
新入幕からわずか半年後の九月場所。勝巳は横綱大乃国から初金星を得る。以来、千代の富士、北勝海、旭富士、曙、武蔵丸ら、対戦したすべての横綱から金星を獲得。全16という歴代最多の記録を作ることになった。同時に、殊勲賞7つ、敢闘賞8つ、技能賞4つ、幕内在位91場所も記録。相撲界屈指の技術と不屈の精神を合わせ持つ力士として名を馳せた。
平成14年3月場所。14日目に岩木山に敗れ、負け越しが決まった勝巳は親方に言った。「長いあいだ、ありがとうございました」。引退の決意を感謝の言葉に置き換えたのだった。千秋楽となった翌日の新聞には、「安芸乃島引退」の大見出しが並ぶことになった。
現役引退後、年寄・藤島を経て年寄・千田川を襲名。五年間にわたって、髙田川部屋で後進の指導に励む日々を送ってきた。そして平成21年8月5日に年寄・髙田川を襲名。
引退時に語った「相撲は人生そのものであり、自分の命である」という言葉通りに、新たな道を歩み始めている。