今場所は今日負けて3勝2敗になりました。
ここ一番での気持ちの弱さを痛感しています。
技術的にも失敗をしっかり反省して、次に繋げなければなりません。
しっかり自分と向き合いたいと思います。
高田川部屋の関取衆、4人目は前頭4枚目・鬼雷砲 良蔵です。
鬼雷砲 良蔵は昭和41年1月5日に神奈川県横浜市に生まれます。
中学まで野球をしていましたが兄が高田川部屋の力士であり、
千秋楽打ち上げ等で部屋に行く度に勧誘されるも
返事をしませんでしたが、地元の新聞社が
「兄弟力士誕生」と騒ぎたてたもので
力士になることを決心します。
ちなみに兄は幕下・前乃富士。将来を嘱望された有望力士でしたが、
内蔵疾患で体調を崩し、関取の夢は叶いませんでした。
56年3月初土俵。前秀峰、秀峰、浜千鳥の四股名で
幕下まで順調に出世しますが、幕下で低迷。
61年11月に強そうな四股名をと行司の木村 和一郎、
現在の式守勘太夫が「鬼雷砲」と命名します。
これは鬼面山、雷電、大砲という3人の歴代強豪力士から
一文字ずつ取った最強の四股名として話題になりました。
この改名から相撲がどんどん積極的に
攻める相撲になり、63年3月に新十両昇進。
平成3年11月には待望の新入幕を果たします。
差し身が非常に良く、187㎝、154㎏の
恵まれた身体をぶつけながらのモロ差し速攻が得意でした。
平成5年3月からは同じ高砂一門の横綱・曙の太刀持ち、
露払いを高田川部屋の剣晃と共に長く務めました。
陽気な性格でユーモラスな語り口から記者達にも、
「オニ関」の愛称で親しまれました。
25場所幕内を維持しましたが、
体力の衰えで8年1月に十両陥落。
7月には幕下に陥落し、現役を引退。
年寄・佐ノ山を襲名し、後進の指導にあたりました。
佐ノ山から山響に名跡を交換して、
相撲教習所の指導などを担当しましたが、年寄株が取得出来ず、
11年3月後に相撲協会を退職しました。
次回は十両・卓越山について書いていきます。