大神風です。
茨城合宿を終え、日常の生活に戻りました。
茨城合宿を無駄にしないように、稽古したいと思います。
高田川部屋の関取衆、三人目は小結・剣晃 敏志についてです。
剣晃 敏志は昭和42年6月27日に大阪府守口市に生まれます。
2歳時に父親を亡くし、母親の手一つで育ちます。
庭窪中学3年時には母校の先輩である大関・前乃山の
高田川親方にスカウトされますが、断って定時制高校へ。
高校を1年で退学し、アルバイトを転々としていた頃に盲腸で入院。
入院中の病室で高田川部屋に遊びに行った時の
写真を見つめて「母親に親孝行しよう」と入門を決意します。
昭和59年11月に本名の星村で初土俵。
翌60年1月には剣晃と改名。
この四股名は顔色が悪く、不摂生の星村を見て「健康」を願い、
現在の式守 勘太夫、当時の木村 和一郎が命名しました。
「剣」という文字は「折れるもの」として縁起が悪いと
四股名にはあまり使われない文字で、
高田川親方も止めましたが剣晃本人が大いに気に入り、
最後までこの四股名を名乗りました。
191㎝の長身で激しい突っ張りからの左四つ、もろ差し。
時には激しい張り手など、師匠の前乃山を彷彿とさせる相撲で
平成3年3月新十両、4年7月には新入幕を果たします。
剣晃自ら「ヒール役」を公言し、
5年3月の対浪乃花戦での猛烈な張り手は今でも語り草。
大関・貴ノ浪には滅法強く、「貴ノ浪キラー」とも呼ばれました。
横綱・貴乃花にも張り手を見舞い、
張った理由を聞かれ「そこに顔があったから」と名セリフを残しています。
そういった破天荒とは反面、母親思いで面倒見が良く、
部屋の若い衆からは人望も厚かったそうです。
7年5月には新小結に昇進。1場所で陥落しますが、
翌7月に自らが太刀持ちを務めていた横綱・曙を破り初金星。
この場所は11勝の好成績で初の三賞となる殊勲賞を受賞。
8年1月には優勝した大関・貴ノ浪に唯一の黒星を付け、
敢闘賞を受賞。5月には横綱・貴乃花を豪快な下手投げで破り、
2個目の金星を獲得、更なる活躍が期待され、
高田川親方は後継者にも考えていました。
しかし、8年11月頃から原因不明の発熱と貧血に悩まされ、
9年3月には急激に体重が落ち、150㎏あった体重が120㎏にまで落ちました。
5月は前頭11枚目で8勝7敗、これが生涯最後の場所となります。
5月場所後に大阪市内の病院に入院。
7月からは休場が続き、番付は幕下まで急降下。
検査で日本では4例しか報告例が無い奇病、
白血病の一種である「汎血球減少症」と判明。
抗がん剤治療を続けましたが、9年3月場所の三日目に
母と兄に見守られながら30歳の若さで死去しました。
余りに早すぎる死に高田川部屋、
日本相撲協会も大きなショックを受けました。
現在も大阪府守口市の霊園に眠っており、
付き人だった剛力山さんはお墓参りに行っています。
間違いなく、剣晃は高田川部屋で一番のスター力士だったと思います。
次回は前頭・鬼雷砲について書きます。