大神風です。
好評頂いている?高田川代々も残り2回で完結です。
まずは前回頂いた質問からお答えします。
五代目が務めた「木戸部長」について。
まず、木戸とは古くから出入口の事を指します。
したがって、国技館などの会場でお客様が出入りする場所を木戸(きど)といいます。
現在は部長との役職はないと思いますが、入場料の管理やチェックをする親方、
お客様が持ってくるチケットを切る″もぎり″という仕事をする親方などが
木戸と呼ばれます。また、現在でも日本相撲協会に永年貢献された方には
″木戸御免″(きどごめん)という資格が与えられ、
全相撲会場を無料で入場できるという資格もあります。
さて、六代目についてです。
六代目は高砂部屋の前頭21枚目・朝若 佐太郎です。
朝若は入門時の師匠、元大関・二代目朝潮と後の師匠、
横綱・前田山の2人の高砂親方と同郷の愛媛県松山市垣生町で大正12年に生まれます。
昭和14年に高砂部屋に入門。朝若の四股名で1月に初土俵を踏みます。
20年11月に幕下で全勝優勝。
翌年の11月に新十両に昇進し、高潮と改名。
しばらく十両で相撲を取り、24年10月に朝若に戻します。
168㎝、108㎏の小兵ながら、立ち合い当たって左を浅く差して
一気に寄って出る取り口で十両上位で活躍。
25年1月に十両3枚目で10勝をあげ、翌5月に待望の入幕を果たします。
しかし小兵ながら、あまりにも正攻法な相撲、非力にも泣かされ、
新入幕のこの場所は4勝11敗。結局、幕内の土俵はこの1場所限りとなり、
27年1月には幕下に陥落し、29歳で引退。年寄・高田川を襲名。
高田川となってからは高砂親方の秘書役を務めて右腕として大いに活躍。
高砂親方が取締となってからは高砂一門の稽古にも目を光らせ、
若い力士を情熱的に指導。特に前の山(後の八代目)には親身になって指導しました。
こうした人柄が信頼され、34年1月に吉葉山、鏡里の元横綱と肩を並べて
勝負検査役(現在の審判委員)に就任。
当時は幕内を最低でも8場所務めるか、
横綱大関と対戦経験のある力士しか検査役にはなれず、
六代目の就任は協会としては大英断でした。
したがって、「幕内1場所の力士が横綱の相撲を裁くなんて…」と批判が出ましたが、
「名選手、必ずしも名監督ではない。選ばれた以上は信念を持ってやるつもりだ」
という決意で、見事に重責を果たしました。
43年2月からは巡業部主任として活躍していたが、
44年11月25日に尿毒症のため46歳の若さで亡くなりました。
予定では最終回の次回は七代目・朝嵐 勇次について書きます。