大神風です。 高田川代々、今回は二代目の侠客・橋本政吉についてです。 橋本政吉は安政3年、現在の和歌山県橋本市近郊で生まれます。 まず先に相撲と侠客との関わりについて述べますと、 相撲に限らず興行界全体的に古くから根強く存在したもので、 侠客は興行師的な裏顔を持ち、特に地方では地元の顔役の協力なくしては、 巡業興行が開けなかったのが実情でした。 その実体は決して褒められはしませんが、 現在の「暴力団」とは違う″任侠″の世界の大物達は 数々の福祉、厚生事業に協力し、功績を残していました。 大阪相撲では仲裁や興行場の確保などで、 次々と大物侠客に入り込まれ廃退していきます。 さて、橋本政吉について。 土蔵破りの名人で度重なる科により北海道の網走監獄に服役していましたが、 得意の土蔵破りで仲間と共に脱獄。仲間が捕まっていくなか、 人相を変える為に木の枝で左目を潰すという放れ業を自ら行い、 人相が一変。網走監獄脱獄成功者の数少ない一人として伝わります。 このような、ものすごい前歴の持ち主が侠客として名を上げ、 大相撲に入り込んだのです。身長175㎝。 この時代としては大男の部類で、片目でタンカを切れば、 全国どこの顔役でも頭を下げたと言われています。 大阪相撲に入り込んだ橋本は明治34年5月に本名で 世話人欄に記載され、しばらく姿を消し、 5年後の39年5月に再び世話人。 翌40年1月に一代限りとされていた高田川の名跡を復活させ襲名。 同6月に頭取に昇格、″任侠″と″相撲″の二枚看板を持つ人物が誕生しました。 現在の西成区に部屋を構え弟子養成を行い、 後の横綱・宮城山、三代目高田川を襲名する、 関脇・早瀬川、初代の遺弟子の関脇・大虎、幕内・日ノ出岩、 さらに関脇・荒岩、小結・大砲など、多くの関取を育て、 特に大正に元号が改まってからの部屋の発展は目をみはるものがあり、 大正5年6月には幕内力士10名を擁しました。 弟子指導は主に大虎と早瀬川に一任、協会内外に目を光らせ、 審判委員、別格頭取を歴任。6年1月には取締の栄位に就きます。 愛弟子の宮城山が新大関で登場する6年夏場所を目前に控え、 晴れ姿を見ることなく、胃ガンの為に満60歳の波乱の人生に幕を閉じました。 初代と同じ、天王寺区の四天王寺に墓石があります。 次回は三代目の関脇・早瀬川について書きます。